とある元SEの思考を探る

ひょんなことからとあるICT企業ではたらくことになったなんちゃって元SEがしたためるブログ。主に、政治・経済・社会問題・日常の出来事について発信していきます。お読みいただけたら、感動にむせび泣くほど嬉しいです。よろしくお願いします。


舛添問題は舛添氏だけの問題にとどまらせてはいけない

舛添都知事。とうとう辞めることになった。

この一ヶ月以上の迷走はなんだったのだろうか。

都政は停滞し、メディアも舛添問題の報道ばかり。まったく無駄な時間だったとしか言いようがない。

 

最初にこの問題単体に対する私の見解を述べたいと思う。

 

まず、舛添さんは騒動の初期段階ですべてを認め謝罪し、出直し選挙をするべきだった。

舛添さんの都知事問題については、大きく分けて二つあると思う。

一つ目は政治資金の私的流用の問題。これに関しては、政治資金の私的流用に関しては政治資金規正法では違法に問えないので、その問題は倫理的な問題。それは有権者が判断するしかない。

二つ目は海外視察の出張費の問題。都の規定で決められた宿泊費を超えて出張費が支払われており、税金を使っていく出張としては無駄遣いなのではないかという批判だ。これに関しては、音喜多さんがブログで詳しく書いてあるのでそちらを読んでいただきたい。こちらの問題は条例違反などの法的問題があるのかもしれない。

 

しかしながら、法令を守っていなかったとしてもその度合いによっては、政治家として都知事として相応しくないとは言えないであろう。例えば、男なら誰しも一度は立ち小便をしたことはあるだろうが、これは軽犯罪法違反である。しかし、このぐらいならば、多くの人は見過ごしてくれるレベルではないだろうか。現に、多くの男性政治家は立ち小便の経験がありながらも、問題に問われていない。

 

したがって、舛添問題で一番大切なのは、都民が舛添さんが都知事であることを許すかどうかということである。

マスコミがこれだけ大々的に批判し、都議会も舛添さんの追求でその他の大事な問題が何も決まらない中、都政の停滞の責任は自分にあるとして舛添さんは速やかに辞任をするべきだった。そして、出直し選挙を行い再度都民に選ばれれば、舛添さんのさまざまな問題はありながらも都民はそれを許したということで、メディアや都議会の騒動も沈静化し、都政は動き出す。舛添さんも都知事として仕事ができる。

 

そのシナリオとして一番いいのが、参議院選挙との同一選である。参院選と同じ日に都知事選が行われれば、選挙費用が単独でやるよりも少なくて済む。これは税金の使い方を考える都知事としては、大事な観点であろう。遅きに失した辞職により結局同一選ではなくなり、税金の無駄遣いという観点を舛添さんは持ち合わせていなかったことを改めて証明することになった。

 

これが私が考える舛添問題である。

 

この問題の背景に隠されたより根本的な問題について考えてみたい。

 

舛添問題は、単独で見れば、重大な法令違反というわけではないから、ここまで大きく報道され、問題になるのにはいささか首を傾げたくなる。

ではなぜここまで大きな報道になってしまったのか。個人的な見解を述べたいと思う。

まず一つ目だが、このように大きな問題があるときは、裏で何かもっと重大な事件があり、それを隠すためにそれよりも小さい問題を大々的に報道して隠している可能性がある。

その一つが甘利氏の問題ではないだろうか。

甘利氏の問題は、建設会社から口利きのためのお金をもらっていたというのだから、これは政治家が特定の個人や企業に利益を供与してはいけない(あっせん利得処罰法)ことに明確に反しており、確実に違法だ。

また、企業献金を受け取ったということも問題だが、こちらは、政党や政治団体への寄付は可能だし、そうした政治団体から政治家個人にお金が流れて政治家がそのお金を使うのも現状合法だ。だから政治家というのは寄付を受け取るための政治資金団体を持つ。これが事実上の企業献金を可能にしているカラクリだ。このあたりの境界はあまりにも曖昧で政治資金規正法がいかにザル法であるかを垣間見ることができる。

 

そして、日本のメディアのレベルの低さだ。

舛添氏が次から次へ政治活動費を私的流用していたことが明るみに出ると、メディアはこぞってそれを報道する。しかし、政治活動というのは極めて曖昧で、例えば普通に生きることも政治活動といえば政治活動であろう。生きていなければ政治活動はできない。その意味で、下着を政治活動費として計上するのはわからなくもない。

 

舛添まんじゅうの購入に関しても報道されたが、これほどまでに日本のメディアは堕落したかと思うと残念でならなかった。もし、そのまんじゅうが事務所に来たお客さんのお茶請け菓子として使われたのであれば、まんじゅうを購入することは問題はない。

政治家は、基本的に利益供与は禁止されているので、有権者に対して何かものをあげることはできない。だから小渕優子氏のときもワインを配ったとして問題となった。

しかし、事務所に来たお客さんに対しては、お茶を出すぐらいのおもてなしは許されている。これは常識的に考えても、許容できる範囲だろう。また、お茶を出すのであれば、それに合ったお菓子を出すのも、許容されるべきであろう。そういうわけで、公職選挙法の第一三九条にも次のような規定がある。

何人も、選挙運動に関し、いかなる名義をもつてするを問わず、飲食物(湯茶及びこれに伴い通常用いられる程度の菓子を除く。)を提供することができない。

 舛添まんじゅうがお茶請け菓子として使われたのならば、問題ない。しかし、このことをちゃんと報道したメディアはほとんどいなかったのではないだろうか。「有権者に直接配ったとしたら問題である」ということは報道されても、「事務所に来たお客さんに対してお茶請け菓子として振る舞われたのならば問題はない」という報道はほとんどなかった。あくまでも舛添さんが私的利用していることや犯罪に当たるかもしれないことを報道のストーリーとして組み立て、悪者扱いするような報道ばかりであった。

問題はそこではない。前にも書いたが、政治資金の私的流用は、今の法律上罰することができない。

 

問題は、舛添氏の政治資金がどこから来たかである。政治資金の中には、税金が原資の物もあるが、個人献金なども含まれるので、原資が税金ではないものもある。したがって、政治資金の私的流用に関して、税金が注ぎ込まれたのであれば有権者は怒ってもいいと思うが、原資が個人のお金であれば、それ以外の人はなんら怒ることはできないと思う。

舛添氏の政治資金の原資はどこなのか。一部報道によれば、政党交付金が当てられたというが、だとしたらこちらの方が問題である。無所属で出馬した都知事選挙中やその前、また都知事という職にあるなかで、税金を原資とした政党交付金が使われたとなれば、それは政党交付金ロンダリングに他ならない。もう舛添氏は党の代表でもなければ政党所属の国会議員でもない。政党交付金は政党に支払われるものであり、舛添氏個人に支払われるものではないからだ。それを個人の政治活動として利用するのはいけない。政党を離れるのであれば、使われなかった政党交付金由来のお金は返金するべきであろう。

日本のメディアはここを報じない。舛添氏の政治資金の原資はなんだったのか。そこに問題はないのか。それについて、日本のメディアはあまりにも怠慢である。政治資金収支報告書は支出だけでなく収入も書いてあるのだから、そのお金の流れを追って行くことができる。

 

そして、それらを考えれば問題は舛添氏だけではなく、政治資金規正法ザル法であるということにたどり着く。

私は企業団体献金はどんな形であれ禁止するべきだと思う。それが、政党交付金の存在意義だ。政党交付金の原資は税金だが、政治家が特定の企業や団体から献金をもらえば、その企業や団体のために何かをしてあげたいというのが、良心を持った人間ならば当然のことだ。しかし、それでは、政治家は特定の企業や団体のために仕事をすることになってしまう。それは政治家がするべきことではない。政治家は特定の人ではなく、国会議員であれば(どの選挙区選出であれ)国のことを考えて政治をすべきだし、地方議員であれば、その地方のことを考えて政治をするべきであろう。

政治活動にはある程度お金がかかるのは仕方がない。国のことを考えれば、東京都選出であっても北海道の人の意見を聞く必要があるし、沖縄の人の声を聞く必要があるだろう。その他様々な調査にもお金が必要だ。程度の問題はあるが、お金は必要であることに異論はないであろう。そのためにあるのが政党交付金だ。このお金の原資は税金なので、特定の企業や団体というわけではない。だから特定の企業や団体に利益を供与しようということもなくなる。それが政党交付金の意義だ。政党交付金というのは言ってみれば、国民それぞれからの献金のようなものである。それを政治家は忘れてはならない。

共産党政党交付金をもらっていないが、これは美談ではなく、「特定の団体に対してのみ政治を行いますよ」と言う明確な宣言であることを意味する。共産党の活動原資の一部は赤旗であるから、赤旗購読者に対して活動するということなのである。

もちろん、すべて個人献金で、個人に利益供与することなく政治活動ができるのであればそれが望ましい。しかし、日本は政治家が十分に活動できる程度の資金が集まるくらい個人献金が一般的ではないし、十分に政治活動ができないのであれば、いかに志を持った人であっても、成し遂げる前に挫折してしまうし、優秀な人は政治家にならなくなるであろう。

もう一度言うが、政党交付金とは広く国民のために活動するために存在する。特定の企業や団体に利益を供与するのにつながる企業団体献金は即刻廃止すべきである。

 

そして政治資金規正法を制定したのは紛れもなく国会議員であるということだ。もっと言うと、国会議員の中でも与党議員たちである。現与党議員というわけではなく、昔政権を握った元民主党国会議員たちもである。彼らには政治資金規正法を改正するチャンスがあった。しかしそれをしなかった。自民党公明党の議員だけでなく、当時与党だった元民主党の議員たちも舛添氏と同じ穴の狢(むじな)なのである。

それを忘れてはいけない。

 

私は、政治家を律する法律を政治家が決めてはいけないと思う。

今の日本は政治家の給与も政治家が決めている。自分の給与を自分で決めるのは経営者でない限り、一般には考えられない。政治家は経営者ではない。有権者から選ばれた人であって、いわば、有権者に雇われているようなものだ。だから政治家の給与には税金が使われる。

政治家は国民から選ばれた人間なのだから何をしてもいいと無意識にでも思っている人が多いのではないだろうか。そう思っていなければ、あんなザル法を作ろうなんて思わない。自分たちに特権があると思うから、自分たちに有利な法律を作ってしまうのである。

 

本来ならば、メディアにはこうした本質的なところを取り上げて欲しい。

しかし、舛添問題もベッキー問題も震源が一週間誌であるのはなんとも情けないことだ。新聞記者や放送業界は何をやっているのだろうか。呆れるばかりだ。

 

舛添氏の問題は、舛添氏本人の問題ではない。政治家全体の問題であり、ひいてはこの国の民度の問題である。

それを肝に銘じていなければ、私たちは適切な政治家を選ぶことはできない。

来る参議院選挙、都知事選挙では、政治家をしっかりと見極めて投票に行く必要がある。