タイトルについて。ちょっと思ったことがあったので書いてみる。
偏差値が高い人と低い人で何が違うのか。
私は学生時代4年ほど中学生を教えていた。個別指導塾だったが担当の生徒というのはなく、それぞれの講師がそれぞれの得意科目を教えていたので、その塾に通っているほぼすべての生徒を教えていた。中には都立西高校に合格した人もいるし、補習のために通っている生徒もいたので、決して偏差値の高くない生徒にも教えていた。
また、大学はとんでもなく頭のいい人もたくさんいたので高偏差値の人の出会いは事欠かなかった。
そんな中で偏差値の高い人とそうでない人というのがどう違うのかを考えてみた。
まず、高偏差値の人はとんでもなく頭の回転が速い。
大学の教科書に書いてあることは一回読めば理解できるし、中には自分で考察して導き出した結論がすでに理論化されていることだったりする。スピードと正確さを両方併せ持つ人たち。
この人たちをAグループとしよう。
私の場合、頭の回転が極めて遅かったので、Aグループの人たちには到底かなわなかった。しかし、大学受験ということを考えると、頭の回転が遅くても、訓練である程度何とかなる。過去問も大量にあるし、高校で学ぶ範囲という限られた中で出題せざるを得ないので、経験を積めば、日本であればAグループの人たちと同じ大学にも行くことができる。
このグループをBグループとする。
偏差値が高くない大学にも頭の回転が速い人はいる。ではなぜ高い偏差値の大学に行けなかったのかというと、単に勉強をしなかっただけだと思う。こういう人は社会人になるとめきめきと頭角を現し出す。しかも、企業からしてみれば、高学歴でない分、最初、比較的廉価で雇うことができる。その中で成果を出し始めれば、Aグループの人たちと同じかそれ以上の収入も得られるであろう。
このグループはCとする。
最後、頭の回転も速くなく、勉強もしない人。この人たちは基本頭を使おうとしないので、偏差値の高い大学には行けない。
このグループはDだ。
Aグループの人たちは正直とんでもない人たちなので、一般の人はあまり目指さない方が良い。ノーベル賞をとるような人とか、数学オリンピックでメダルを取るような人たちである。東大の理IIIに現役で合格してしまうような人たちは一般の人とは別世界に生きる人々である。目指してはいけない。競争してもいけない。
意思決定も早ければその精度も高い。だから受験勉強や入試という限られた時間の中で高い成果を叩きだす。
問題はBグループとCグループの人である。この2グループの大きな違いは何なのだろうか。
私は“つめ”だと思う。詰めが甘いの“詰め”である。
入試で高得点を得るためには、単に理解をして問題が解けるだけではいけない。精確に解かなければいけない。これが私の言う“詰め”である。
私が4年間さまざまな生徒を見てきた経験からすると、この詰めの甘い人が非常に多い。
なかなかテストの点数が出ない人は、復習をする際、ケアレスミスに対して、「これは解けてたけど計算ミスで間違っただけだからOK」としてしまう。
ここで詰めが甘くない人は、「なぜ計算ミスをしたか」を徹底的に考える。
そもそも詰めが甘い人は計算力が無い人が多い。筆算の方法を理解できてそれでOKとしてしまうのである。筆算なんて誰でも理解できるにもかかわらず。計算の大事なことは、理解することではない。正確に解答を導き出すことである。単純だからこそ一つのミスがあっても許されない。詰めが甘い人はその認識が甘い。
計算力がある人が計算ミスをしたのなら、その背景には単なる計算力で片づけられないことが原因となっている。計算に集中できなかった原因があるのである。なぜ集中できなかったのか。その原因の多くは、問題を解くのにいっぱいいっぱいだったからである。自分のその分野に対する理解が甘かったばっかりに解くことに精一杯。結果、計算に集中できない。その分野に対する詰めが甘いのだ。高偏差値の人(詰めが甘くない人)は計算力の向上に加え、計算ミスをするに至った背景まで考慮する。その訓練を積んでいけば、ミスはどんどん減っていく。結果、テストで高得点が取れる。
また、詰めの甘さというのは思慮の浅さにも通じる。高校数学では場合分けというのがある。中学数学と違って、条件によって答が異なる。その条件を自分で考えなければいけない。これが場合分けである。詰めが甘い人は、この場合分けができない。一つの場合だけを考えて答えを出してしまう。この類の詰めの甘さは社会人になっても非常に重要になってくる要素の一つである。
というのも、仕事をする上では、様々な場合を考える必要があるからだ。
例を挙げよう。
しばしば、以下のような意見を聞くことがある。
一流の人は言われる前に動く~(中略)~。これに対し、学歴が良いだけの“二流のエリート”は常に受け身で、言われたことしかやらない。ちなみに三流の人は言われてもやらない
言われたタスクに対し、それに付随する改善点なども合わせて処理をする。簡単な例だと、お客さんに見せる資料印刷しておいてと言われて、中身をつぶさに理解して次の仕事に生かしたり、さらなる改善を思いつくなどだ。(さらにそれを先輩社員にイラっとさせることなく指摘できるならなお素晴らしい)
問題の難易度が上がれば場合分けも複雑になってくる。複雑な場合分けを素早く適切にできることは、仕事においても有用な能力であると思う。
そうしたさまざまな“詰め”を一つ一つ詰めていくことで、テストで点が取れるようになる。高偏差値の人は思慮が深いからこそ、就活においても低偏差値の人よりも内定がもらいやすい。
大学で勉強したことというのは、その分野の研究をしている企業に行かない限り、ほとんど仕事で使うことはない。仕事で必要なのは、一つの事柄からどれだけのことを考え(場合分けをし)、それぞれに対して適切な策を考案し(解法を見つけ)、実行できるか(解ききるか)である。低偏差値の人よりも、高偏差値の人の方がそれができる人が多いのは明らかである。
だから、理解はしてるはずなのになかなかテストの点が取れないと思う学生の方は間違えたことに対し、是非もう一歩深く考えてみてほしい。物事を多面的に見れるようにしてほしい。
ただし、あまりあれこれと深く考えすぎると今度は決断ができなくなってしまう。社会では、情報が不十分なまま決断をしなければいけないときがある。その時には、その状況でできる限り情報を集め、ありとあらゆる可能性を瞬時に考慮し、不確定な情報がある中でも最適な選択をすることが必要になる。これには、経験に裏打ちされたものに加え、ある意味での動物的勘も必要になってくると思う。しかしその動物的勘も経験を積めば精度もあがっていくであろう。
昨今の東芝や三菱といった歴史ある大企業の不祥事は、そうしたことをせずに社内政治だけを鑑みて成り上がった経営陣や幹部が多いことによるものだと思う。自分の部署のことを日頃から十分に情報収集していたのか、間違いと思ったことをきちんと上に伝えることができるか(最適な選択をすれば、不祥事はどこかで止められたはずだ)。
社会人になると、そうしたことは人から求められることはほとんどない。自分で意識して養っていかなければいけない。
私も上司や先輩に色々と意見を言って後悔したこともあるが、それも含めて経験と割り切って、その時その時で最適な判断をしたいと思う。
最後のは自戒も込めて。
本日もここまでお読みいただきありがとうございました。