前回は「日本の学校教育に圧倒的に欠けているもの」として、人を喜ばせることということを挙げた。
生きるためには稼ぐということとが必要で、稼ぐためには、人を喜ばせるということが大切。そして、学校教育にはその点が欠けているんじゃないかという指摘だった。
正直、書き始めはこんなにきれいごとを言って締めくくるなんて思ってもみなかった。もちろん、人を喜ばせることが稼ぐことに繋がるし、私はそれは信じて疑わない。ただ、最近読んだ本、夢をかなえるゾウ の影響は少なからずあったのかもしれない。
今回は、もう一つの観点、「お金が無くても(少なくても)生きていくことができる」という観点から指摘したい。
私は、こちらの方が人を喜ばせることよりももっと重要だと考えている。なぜなら、人を喜ばせるというのはある種の才能であって、全員ができるものではない。全員が出来たらみんな起業したりNPOを立ち上げたり、会社員なんていなくなってしまう。
それよりも、あまり人を喜ばせることが出来なくても(稼ぐことが出来なくても)生きていく術を身に着けるということが大切だと思う。
それでは、お金が無くても(少なくても)生きていくことができるために必要なことを説明していこう。
メンタルに強くなる
結論、それはメンタルに強くなるということだ。
強靭なメンタル。私が追い求めてやまないことだ。ちょっとしたことですぐくじけそうになるし、すぐに弱気になるし、すぐに早く死にたい(苦しみから楽になりたい)と思ってしまう。
調子が良い時はメンタルを病むなんてことはほとんどないだろう。そんなときのことは生きる上でどうだっていい。調子が悪い時、仕事がうまくいかないとき、就活がうまくいかないとき、恋愛がうまくいかないとき、そういう時にこそ生きる力が必要だ。
人生山あり谷あり。時には調子が悪いときもある。
ことメンタルを病むのは、仕事が上手くいかなくて稼げなくなった時だと思う。すなわち、リストラされて転職もできず、学生だったり就活が上手くいかなかったりするときだ。
それ以外の時はあまり気にする必要はないと思う。恋愛がうまくいかなかったとしても、恋人がいないことで生活ができなくなることはない。お金があれば、飲みに行ったり、友達と遊んだり、それ相応の場所に行って気晴らしをすることは可能だ。しかし、お金が無ければそれも叶わない。
お金が無い状態でも、どん底の状態でも、どんなに将来絶望でも、決して生きることをあきらめない。それがお金が無くても(少なくても)生きていくということである。
今の学校教育では、そうしたことは一切教えられない。学校教育の中では、生きていくことができないという状況は、まずもって体験しない。
子どもの頃は、社会に守られ、学校に守られ、そして親に守らる。よほどの事情が無い限り、生きていくということに不安を感じることはないだろう。学校に行けば給食が出てくるし、家に帰れば、ご飯がたべれる。
(もちろん中にはそういう環境にない場合もあるだろうが、その話は、以前、少し書いたのでそちらの記事に譲りたい。)
だからこそ、大人になって、親からの仕送りなく一人で生きていく段になって直視する。自分で稼ぐしかないんだと。そして、仕事に失敗してお金が無くなって精神的につらくなったときに立ち直ることができなくなってしまう。
なぜそんなことが起こるか。
一つは、学校教育では忍耐力はつかないということだ。
忍耐力、耐える力。これは生きていくうえでの必須能力の一つだ。
多くの場合、仕事とは忍耐力といかに向き合うか、上手につきあえるかが上手くいくかいかないかを決める。
昔ながらの終身雇用的な慣習の残る日本においては、未だに新卒で入社した会社に定年まで勤めるという形態も多い。40年も同じ会社で働くことになるのは想像を絶する。新卒で入社した会社が居心地の良い会社であれば良いだろうが、多くの場合は、どこかストレスを感じながら会社員として生きていく。まさしく忍耐だ。
学校では、こうした忍耐力は養われない。
まず、学校というのは1年間でクラスが変わる。担任が変わる。クラスメイトも変わる。どんなに嫌な担任でも1年待てば良い。少なくともその希望がある。嫌な先生だったら校長先生に直談判して次の年には担任にならないように配慮してもらうことも可能だ。
さらに、クラス替えが無い学校だったとしても、小学校で6年間、中学、高校でそれぞれ3年間耐えれば、新しい学校に行くことになる。環境が変わる。数年待てばいい。少なくともその希望がある。
だからこそたった数年の忍耐力しかつかない。
大人は言う。会社に入ったら3年は勤め上げろと。
だけど会社員人生は、3年耐えてさらに何倍も続く。3年待てば新しい学校に通えるという学生時代とは違う。
だから、学校教育では忍耐力は養われない。
仕事がつらかったら転職すればいいと思うかもしれない。すぐに転職できる人はそれでいい。だけど、私も経験があるが、転職というのはかなり労力のいることだ。莫大なエネルギーを浪費する。しかも大手企業から中小企業やベンチャーに移るのであればなおさら安定を捨てて良いのか!という葛藤とも向き合わなければいけない。
新しい会社でやっていけるのか、という不安も常に付きまとう。入ってからも周りに追いつくために必死になって仕事をしなければいけない。過去の蓄積で仕事ができた前職と比べ、これまでの経験を活用しつつも、やはり新たなことを学ばなければいけないのが転職だ。
もし会社が辛くて転職先が決まる前に退職したのなら、無職のまま仕事を探さなければいけない。何か月かかるのかも分からない。夜は不安でいっぱい。朝もまたハローワークに行かなきゃいけないだの、面接で根掘り葉掘り聞かれるだの思うと憂鬱だ。
これが何か月も続くと絶望を感じるようになる。
それを耐える力は学校教育では養われない。
学校教育では絶望は感じない。
テストで悪い点をとってもそれは一時。そして、勉強をしてきた人ほどいい点数を取るので、絶望を感じることはなくなってしまう。一生懸命勉強すれば、テストで良い点が取れる。いい成績がつく。良い高校にも入れる。親も褒める。
だけれども、前回述べたように、勉強をしたからと言ってお金を稼げるわけではない。たった数人の親族を喜ばせることしか喜ばせる方法を知らずに育った人は、多くの人を喜ばせる術を知らない。つまり稼げない。あるいは薄給で社畜となって上司や経営者といった、やはり数人の人を喜ばせるだけの稼ぎにしかならない。
また夢をかなえるゾウ の受け売りだが、人は変わるためには不幸が必要だ。夢をかなえるゾウ にはこう書かれている。
人間が変わるにはな、もうでっかい不幸が必要やねん。悩んだり、苦しんだり、もう死んでまおうかなて思うくらいのでっかい不幸や。そういう時、人はやっと、それまでのやり方を変えんねん。人間なんてほっといたら楽な方、楽な方へ流れてまう生き物やからな
と。
今の学校教育では絶望も不幸も感じない。
私は強く思う。学生は勉強すれば良いなんて戯言だと。勉強するのは当たり前のことで、それ以上のことを学ばないといけない。
絶望の中でも生きること。
それが一つだ。(もう一つは、いかに人を喜ばせるか、だ。)
勉強さえしていれば親からも先生からも周りからも何も文句は言われないという風潮。これは絶対に変えねばならない。
精神的にたくましくなるために。
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