ここ数か月考えていることがある。
それは、日本社会はやたらと「なにをやるか」に重きを置きすぎているのではないかと。
例えば就活。
面接では決まって「うちに入ってどんなことがしたいですか?」と聞かれる。
例えば子どもの頃。
親や親戚には「将来何になりたい?」と聞かれる。
会社にはいてからも
上司から「(この部署で)どんなことやりたい?」と聞かれる。
やたらとdoだ。英語で言うとすべて
What do you want to do?
となる。
私は正直特にやりたいことなんてない。だから、こういうことを聞かれたときにとても困る。そして、こう思うのだ。
みんなそう聞くけどみんなやりたいことが明確にあって、それが実現できているのか
と。会社にいると、とりあえず会社に来て覇気もなく働いて、大きなトラブルが無いことを祈りながら時が過ぎるのを待つ。そんな社員は多くいるのではないか。特に会社の規模が大きくなればなるほどその傾向は顕著になるように思う。
そして、そんなに何がやりたいかが重要なのかと。何がやりたいかというのは、あればあるにこしたことはないし、なければないで何ら問題ないのではないか。
別に何がやりたいかなんてなくったって、十分に満足のいく生活ができる。
それは、何がやりたいかではなく、“どうありたいか”というもう一つの指標があるからだ。
例えばこんな感じだ。
- 大企業に就職して一生安泰になりたい!
- スキルを身に着けてフリーランスになるぞ!
- 幸せな家庭を築きたい!
これらはすべて“状態”であって何を“やる”かではない。「一生安泰」という状態だったり、フリーランス(=企業に縛られない)という状態だったり、幸せな家庭を持つという状態である。
これらの文言を引き出すための質問は、
What do you want to be?
となる。つまりbeだ。
このbeを目指すことで結果的にdoが見えてくるということもあっても良いのだと思う。すなわち、目指す状態が明確であれば、そこに至るまでの手段はなんでもいいと。そのことに興味が無くても、最終的な状態に到達できるならばその手段をとる。それが原動力となってもいいと思う。
でもこう思う人もいるかもしれない。
例えば就活の際、志望動機はないですか?と聞かれたときに、
「御社の様な大企業に入って一生安泰で暮らしたいからです!」
と言ったら絶対落とされるだろう。だったら、
「御社に入って、~~のようなビジネスに携わり、~~のような社会を実現したいです!」
といった方が良いのではないか。結局、beよりもdoではないのか?と。
ニワトリが先か卵が先かの問題に行きつくのかもしれないが、結局は、beが明確になっていれば、志望動機なんていくらでもでっちあげることができる。大企業に入りたいならば、それ相応の志望動機を考えなければいけない。beを得る(なりたい状態になる)ためにはなんだってする、それがbeを明確にすることによって得られる原動力だ。
そして実は、beを起点としてdoをでっちあげて、面接でしゃべっていくと、いずれと、そのdoがしたいと思うようになる。時分に何度も言い聞かせることが大事だったりする。
doじゃなくて、beという第二の視点を持つことで、「やりたいことがないことはだめなこと」という呪縛から解放し、人生を少し広い視野で見ることができるのではないかと思う。