とある元SEの思考を探る

ひょんなことからとあるICT企業ではたらくことになったなんちゃって元SEがしたためるブログ。主に、政治・経済・社会問題・日常の出来事について発信していきます。お読みいただけたら、感動にむせび泣くほど嬉しいです。よろしくお願いします。


不公平はどこまで許容されうるか

少し前にこんな記事を読みました。

daipanman.hatenablog.com

私の友達のブログなんですが、内容はタイトルのとおりで、社会は不公平。だからこそ、不公平を受け入れて行動をした方が良い。その通りだと思います。

私が東大に入ろうと思ったのも、親が医者や弁護士や国家公務員とかじゃなくて、決して頭のよくない、頭の回転が速くない私が東大で学べることを示したいという思いがあったりなかったり。小、中、高と公立でしたが、あきらかに頭のでき方が違うなと思う同級生は何人もいましたから、本当に世の中不公平だなと思って過ごしていたものです。

 

ですが、その不公平はどこまで許容されうるのでしょうか。

 

例えば

何の罪もないのに通り魔に殺された人

例えば

地震で家屋が倒壊して家族が下敷きになり一人身になってしまった子ども

例えば

津波で両親が流されてしまった人

例えば

先天的な病気に罹ってしまい、一生その病気と付き合わないといけない人

例えば

生まれてきたけれども親に虐待されて家出をしなければいけなくなった子ども

例えば

子どもを産みたいのに子どもができにくい体の人

 

世界を見れば(日本でも)もっとあると思います。こういったことも「社会は不公平だから仕方がない。それを受け入れよう」と言えるのかどうか。

私たちが見ている世界は実に狭いです。私たちは半径1メートルのことしか見えていないのではないでしょうか。上に挙げた例はすべて現実です。それは少し考えれば誰でも思いつく例だと思います。

だけれども普段はあまり意識しません。

なぜか、それは私達が普段生きている中でそういう人たちとはほとんど関わらないから。半径1メートルの外だからだと思います。

恐ろしいことに、年齢を重ねていくにつれて、関わる人というのは絞られてきます。私立でなければ小学校・中学校は地元の子どもが集います。しかし、高校は公立高校でも偏差値で分かれます。ある程度偏差値が近い人たちの家庭はある程度似ています。例えば、偏差値65の高校に通う子どもの親はたいてい教育に関してはお金を惜しまないと思います。

大学に入ってもそうです。企業に入っても同じです。私の会社だと、国立大学卒、早慶卒、関関同立卒、MARCH卒、あと少し高専卒あたりの人が同期です。一定の学力がある人ばかりです。もちろん例外はありますが、育ってきた環境は近しいのではないでしょうか。少なくとも親から見捨てられて大学に通えないという人はいない。

国家公務員もそうです。国家総合職であれば、東大、京大、一橋あたりがほとんどです。そういった方々が国家のかじ取りをしているわけです。

 

冒頭で紹介したブログの記事には講師が

社会は不公平があたりまえ。」 

 と述べたそうです。見る人によってはグループの人数が3人であろうが4人であろうが、そんなのは不公平には当たらないと思うかもしれません。だって、ちゃんと企業に就職できているわけで、こうして教育を受けていることができない人だってたくさんいるのだから。私なら、「あなたはグループの人数が一人違うぐらいで不公平だと言うかもしれないけど、こんなの全然不公平ではありません。世の中には簡単には乗り越えられない不公平がたくさんあります。このぐらいのことは不公平とは言いません。」と言うかもしれません。

先日紹介したブログに触発され、鈴木大介さんの「家のない少女たち」という本を読み進めています。そこには、十分に教育が受けられない少女たちのルポが書かれています。彼女たちは決して好んでそのような生き方になったわけではありません。家庭の事情からやむなくの場合がほとんどです。

どんな人でも多かれ少なかれ、親に傷つけられたことはあると思います。「家のない少女たち」には、例えば

はやく大きくなって生命保険かけて死んで 

と言われた少女が書かれています。

私たちが普通に生きているだけでは見知ることのない世界がこの世にはたくさんあります。その世界には“不公平”という一言で語ることのできない不条理なことがたくさんあります。

 

ある程度の不公平は許容できるでしょう。問題は、社会的にどこから許容してはいけないかということです。

例えば、例で挙げた地震津波と言った災害で被災された人には一定程度の補償があるかと思います。

親に虐待された子どもも、児童養護施設などがあると思われるかもしれません。ただ、先ほどの鈴木大介さんの「家のない少女たち」を読めばその仕組みも十分に機能しているとは言えません。

先天的な疾患を持つひとも、障碍者と認められれば、手当がもらえるでしょう。難病や特定疾患などに指定されれば、同様に医療費の補助があります。ただし、完治できない病気であってもそうした国が指定していない病気はあって、苦しんでいる人も多いと思います。

先日、慢性疾患を持つ方と知り合う機会がありました。詳細はプライバシーにかかわることなので述べれませんが、確実に社会には個人の努力では乗り越えられない圧倒的な不公平が存在します。

その不公平を乗り越えた人もいると思います。そしてその方々がメディアなどで取り上げられることもあります。そういう人たちを見てだから頑張れ!というのはあまりに無責任です。不公平を乗り越えるには想像できないくらいの精神力が必要だったりもします。

 

どこまでの不公平が許容されうるかは私には分かりません。けれども、私の知らない世界がたくさんあるということを忘れずにしたいと思います。