とある元SEの思考を探る

ひょんなことからとあるICT企業ではたらくことになったなんちゃって元SEがしたためるブログ。主に、政治・経済・社会問題・日常の出来事について発信していきます。お読みいただけたら、感動にむせび泣くほど嬉しいです。よろしくお願いします。


努力しても幸せになれない(中編)

努力しても幸せになれない(前篇)の続きです。

 

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そんなこんなで一浪の末入学した東京大学。学生生活は確かにある程度は良かったんだと思います。ずっとやりたかったバレーボール(実際にやったのはソフトバレーだが)もサークルでできたし、サークルの仲間とは今でもそれなりにはつながりがあります。

私はなんだかんだでソフトバレーが好きだったので、サークルにとらわれず、大学2年の頃から、社会人のチームに練習に行っていました。サークルの練習は週3でしたが、追加で練習をしたりして、週5回以上、時には9連続で練習をしたりしていました。ジャンプサーブの練習をするために、一人で体育館をとって練習したこともあります。大学4年には、東日本でもトップレベルのチームの練習に参加させていただき、何試合かはそのチームで大会に出場しました。ソフトバレーもかなり練習しました。と同時に、自らのチームを持ち、月に2回ほど大会に出場していた時期もありました。大会によっては優勝をしたこともあります。

だけれども、やはり私にスポーツの才能はありませんでした。上手な方々と練習をしていると、最初は上手くなるよう、追いつけるよう頑張るのですが、どこかで自分の限界を感じます。どんなに努力をしても、これ以上上手くはなれない。そう思う時がくるのです。身長も172 cmと平均男性の私は身長の高い選手のようにブロックの上からスパイクを打てませんし、だからといって、ブロックアウトやタイミングをずらしたフェイント、巻き打ちなどの技術があったわけではありません。これらの技術も中途半端、一度相手に見切られるとすぐに効かなくなってしまいます。不器用だったのです(そもそも、基本であるオーバーハンドパスができるようになるまで半年ぐらいかかっています)。やっぱり努力しても敵わないことはある、上には上がいるということをまた身を持って知りました。

今では数か月に1度、当時の仲間と練習をするぐらいで、大会には出ていません。昔のようにチームを作ろうという気力もありません。努力をしたことで現実を直視しざるをえず、現実に打ちのめされたまま、現在に至ります。

 

そしてもう一つ。満たされないものがあります。やっぱりぽっかりと空いているのは心の穴。それがどうも満たされません。

私は、圧倒的に自己肯定感が低いのです。今思えば、 スーザン・フォワード のカウンセリングを受けたら、親のせいと言われるかもしれません。

とにかく、ありのままの自分でいることになんら価値を感じません。とにかく世の中の役に立つこと、必要とされることを求めていました。

これまで必死に勉強してこられたのも、世の中の役に立ちたいと思ったからという一面もあったのかもしれません。あるいは、親に認められたいという思いからだとも考えられます。とにかく誰かに認められたい。その思いが強くありました。今もあります。

だからこそ私は必死に勉強しましたし、理系でしたけれども、政治や経済の本も読んで、日本が良くなるためにどうすれば良いのかを必死に考えました。当時は年間100冊は読んでいたと思います。読書嫌いだった高校時代の私からしてみたら、びっくりする量です。その結果、日本経済が良くなるために最低限必要なデフレ脱却(当時の日銀総裁は白川総裁でした)が絶対に必要であること、その為には、金融緩和をやらなければいけないことなどを学びました。また、財政政策では社会保険料収入と税収入を一元に管理するために歳入庁の創設(驚くべきことに、社会保険料を徴収する日本年金機構が把握している法人数と、法人税や消費税を徴収する国税庁が把握する法人数には80万ほどの開きがあり、年金保険料をとれていない法人が存在する)、消費増税しても税収は上がらなことがわかってきました。

そうした知識を得ていくうちに、この日本が沈没してしまう前に、正しい政策を実行しなければいけない、その思いが強くあり、少し前の記事で述べたように3.11の震災もあり、政治に深くかかわるようになりました。

これもやはり、崩れゆく日本をなんとかしたいという思い、そして、こんなちっぽけな私でも社会の役に立ちたいと思ったからの行動だったと思います。

政治の世界には優秀な人材が少ないです。私ですら、優秀だと錯覚するぐらいです。だからこそ、今私が応援している衆議院議員の方も、私を必要としてくれたんだと思います。

 

話は大学時代に戻ります。大学ではそれなりに勉強はしました。しかし、学部では、行きたい研究室に行けず、だれも志望しないような研究室へ配属。文京区に住んでいましたが、研究室が柏にあるので、冬学期からは柏に通っていました。希望する研究室に行けなかった理由は、教授が成績は一番よかったが、私なら他のところでもやっていけると思ったからだそうです。要するに、私の政治力不足です。他の3人は、それまでの授業等で教授と仲良くなっていたのですが、私はそれが不足していたようでした。やはり、世の中はいかに権力のある人に取り入るかが大事なのだと実感しました。と同時に、こんな研究の世界は自分にはとてもじゃないけどもやっていけないとも思いました。博士があふれる中、研究の世界で必要となるのはコネです。私が苦手とするところです。

希望する研究室に行けなかった私は、大学院は専攻を変えることを決意。新たにでき回路の勉強をしなければなりませんでしたが、学部の研究室では夏学期は研究をしなくても良かったということもあり、無事、電気系工学専攻に進みました。大学院入試は成績重視。無事、第一希望の研究室に入ることが出来ました。

大学院での研究は、「水の電気分解用電極触媒CaMn2O4・xH2Oの合成と評価」です。電気系なのに完全に化学実験をしていました。研究室では初めてのテーマということもあり、実験室の立ち上げから計画を開始。教授もやったことない実験だったので、頼りは論文。1年目には何十本もの論文を読みました。しかし、論文を読んでも再現はなかなかできないもの。2年の夏まで殆ど成果はでませんでした。そんな状態だから、就職活動も散々。まともな研究成果もしゃべれず、自由応募は全敗。4月半ばが終わってからは推薦に切り替えました。正直、当時は何をやってもうまくいかない状態の上、就活はしないといけないわ、5月には修論の中間審査もあるわで、散々な日々でした。

当時、ゴールデンウィークあけに、実験を指南してもらうために、教授の知り合いの大阪大学の研究室の下へ行く機会があったのですが、その大阪までの道中、ほとんど何も考えることができず、2時間半、ぼーっとして移動していました。少し前なら好きだった本も読めず、励ましてくれた区議会議員の方へのお礼のメールを考えるだけで2時間半を使っていました。

そうしたつらい時代もありましたが、夏にはなんとか発表できる成果が出て、9月の応用物理学会、12月のボストンでのMRSや東大での光機能材料研究会、翌3月の日本化学会などで研究発表をすることができました。今思えば、あの半年が一番楽しかったと思います。初めての学会、研究費で出張。ボストンには1週間ぐらいいました。久しぶりの海外です。当初、持病もあるので、12時間ものフライトに耐えられるか不安でしたが、なんとか持ちこたえました(ホテル着いたときはかなり悪化しましたが)。この半年間は、26年間生きてきたご褒美だったのかもしれません。

未だに研究者としての未練はありますが、コネと実力が入り乱れたあの社会では私は生きていけないと思います。学生としてちょっと研究の世界に足を踏み入れるくらいがちょうど良かったのかもしれません。

 

さて、勉学や研究の方ではそれなりに楽しめた学生時代でしたが、結局はただそれだけの人。勉強ができてもお金にはなりません。社会人として生きるためには、お金を稼ぐ必要があります。私にはこの力が欠けています。何も考えず勉強ばかりしてきたのですから、仕方がないのだと思います。

 

後篇に続く)